【1999年5月(3)】
国東の土谷家の家紋について、少し整理をしてみた。
(1)丸に違い鷹の羽
この家紋は、真玉町の臼野の山畑という地域に住んでいた土谷家に多い。現在も何軒か残る土谷さんに電話をしたが、その地域の土谷さんはこの家紋である。今は廃寺となった浄土真宗の西源寺という寺の壇家が多い。この筋の子孫の一人で、今は城前に住む宏平さんが所有する系図には寿永元年(1182年)に真玉町の泊の港に先祖が着いたとある。系図では藤原氏の一族としている。
また、香々地町の小畑の上のほうに住む土谷さんにもこの家紋が残る。こちらが私の直接の先祖で、曹洞宗の梅松寺の壇家が多いが、明治以前は天台宗の寿福寺の壇家であった可能性が高い。
小河内の大山神社の石段の登り口にある灯籠には西暦1700年代後半の年号と共に丸に違い鷹の羽の家紋が刻み込まれているが、この灯籠を寄進した人物がどの一族に属するかがわかると手掛かりになると思われる。
(2)下がり藤
三畑土谷家の家紋である。現時点ではこの家系の系図がもっとも信頼性が高く、江戸末期にこの家から出た土谷清治によって残された膨大な資料もある。そうした資料などから、この一族が小河内の土谷家と深く関わりがあること、先祖が相模の国から出てきたことなどが伺える。豊後高田の港に着いた後、小畑村に3日間留まり、小河内に着いたとある。そこから三畑に移り、足駄木などを開墾した。系図では藤原氏の一族とされているが、山畑土谷家の系図との接点は見つからない。
(3)匂い梅/梅鉢
小河内にある大山神社は、三畑土谷家の子孫によると、先祖の屋敷があったところで、その神社の階段のそばに、土谷持継という先祖の墓であるとされる山神社と呼ばれる石碑がある。この小河内に一軒だけ残る土谷さんの家の家紋は匂い梅。
また、今後の調査によるが、3代前に国東を出て北九州に住むようになったという戸畑区の土谷さんの家の家紋は梅鉢。また、2月にメールをいただいた、国東→宮崎県→オーストラリアに住む土谷さんの家も梅鉢だという。これらは同じグループではないかと思う。
(4)丸に木文字
香々地町小畑の梅松寺の壇家である土谷家には丸に木文字の家紋の他、丸に福の字という家紋もあるが、この一族は系図によると、源氏の系統の原家から土谷を名乗るようになったとある。また南北朝時代の後光厳天皇の第三皇女に由来するとされる梅松寺と深く関わっており、その皇女と共に都から下ってきたという伝説も残る。その時期にこの地に移り住んだとすれば、山畑や三畑の土谷家よりも時代的に新しい。またおそらく三畑土谷家よりも先に住んでいた小河内の土谷家よりも新しいということになる。
この一族は小畑の庄屋の家だったということだが、寛政2年(1790年)に当時の庄屋だった土谷喜平次(当時80歳)が、峠を越えた先の真玉町臼野の赤松(横山と山畑の中間点)にあった曹洞宗玉泉寺の過去帳の記載を住職に代わって書いたという記録が残っている。小畑と山畑や横山のそれぞれの土谷の相互の行き来を感じさせる。この土谷喜平治の名前はこの一族の系図に記録されており、この4年後の寛政6年に亡くなっている。
(5)三つ巴
山畑に近いが、真玉町臼野に横山というところがあり、ここに住む土谷さんはこの家紋を持っている。寺は浄土真宗の広徳寺。ここについては、まだ系図などの資料には行き当たっていない。
(6)抱き茗荷
まだ、実際の家を確認していないが、土谷宏平さんによると、抱き茗荷の家紋を持つ土谷さんたちがあるらしい。
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